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2008年5月

2008年5月30日 (金)

自分への理解と信頼

あなたって自分大好きでしょう?
とずっとよく言われ続けている。
まぁ僕は死ぬまで自分を大好きでいられる自信がある。

滝沢修著「俳優の創造」の中に
「役の探求はそのまま自分の探求であり
 自分を見つめる眼の深さが役に探る入る深さになる」
とあって、迷って悩んでた時に胸に沁みた。

しかし、それは自分が知る現実を手掛かりにして
でっち上げのお芝居の中にあるリアリティを探れということなのか?
自分の経験をものさしとかコンパスにしろってこと?
自分が好きって言うのはものさしが使い易くって重宝するってこと?

もちろん違う そんなことではない。

でっち上げとして切り貼りしてそれらしく見せてはいけない。
問題は自分にあったことではなくそのときの自分。
登場人物の人生はこれから起ること。
自分に何が起るかということだ。そして、それは
これまで自分には本当は何が起っていたのかを知ることだ。

「我思う故に我在り」とつきつめた所にいる
人に足を折られても足は自分ではないからと微笑む
人間に関係することにはすべて責任があるとする
心の奥のおだやかで自由な自分を探りだし役の人生を辿り巡る。

僕はそんな作業をし、傍らでそっと自分に出会いたいだけなのだ。

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2008年5月22日 (木)

リラックス度と解放感

緊張感の張り詰めた現場の中で自分を解放しリラックスする。
どうかすると普段の生活の時よりも。
役者は解放が大好き。気持ちいいから。

スタッフは台詞さえなめらかに言ってくれればと思ってる。
しかし役者は解放しなくてはリラックスしなくてはと
踏ん張り、とち狂って台詞を飛ばす。
リアリティも実感も感情もリラックスの場にあると思うから。
現場に慣れない新人のような緊張に頬を痙らせての段取り芝居を拒み
出してしまったNGの後のTake2の中に落ち着きを取り戻したりする。
もちろんNGはダメだ。すべて一発で決めるのが優秀な俳優だ。

自分を解放しリラックスさせるのは技術。
としてあるにはある。
出来ない現場があるのはその現場の雰囲気のせいではなく
自分がその技術を習得していなかったためだ。
例えば、涙を流す。例えば、笑い転げる。
例えば、怒りに震える。例えば幸せなほほ笑みで見つめる。

目薬を持って行く訳ではなくマンガを持って行くでもなく
身体ひとつで現場に入り、何回でも再現してみせる。
そこに持ち込んでいる技術はなんだろう。
凝り固まった身体をほぐし、心をほぐすものは何だろう。

リラックス 度 と俳優力の処で書いた。
つまりリラックスしてればしてるほどいいのではないか
と僕は思っているのだろう。
応えるべき制作側からの要求にそんなものがあった験しはない。
けれども、解放感は俳優のスケール感だ。
制作側の要求に小手先で応えようとすればそれは小さくなる。

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2008年5月15日 (木)

運動能力

本番の時、スタート!って皆普通に言うけど
アクション!って韓国で撮影した時は言ってた。
日本の現場では聞いたことないな。
アクションって蹴ったり殴ったりのイメージだもんね。
劇を作ろうという身体はそりゃ、軽やかに美しく動く身体だ。

スポーツ選手になれると思ったことはないし
試合で勝ったり、競争したりに燃えはしなかったんだけど
俳優で喰っていく以上は身体を甘やかせてはおけない。

プレーヤーと言うとやっぱり選手のこと?
演奏者とか役者も、やっぱりプレーヤー。
鍛えるぞ、力をつけるのだっていうと
ランニングしたり腹筋したりと体育会系トレーニングやっちゃうけど
81話の「チュモン」や「24」や千九百回上演の「放浪記」
なんかを観るとそれを支えた俳優達の体力が尋常では無いと分かる。
何回腕立て伏せやって備えときゃいいの?

プレイってココロおどること。
先に進もうとする精神に応え続けられる身体。
カテゴリーじゃないけど「心と体」って僕のテーマだし。

身体を甘やかせちゃいけないけど
身体からの声って無意識方面からの声なわけで
拝聴すべき大切な意見だったりする。
10キロ走ると決める声、9キロでやめたい声、許可しない声。
で、10キロになってやめようとしたら、なんかまだ走りたいという声。
でも11キロの手前でかなり強い後悔がやって来たりして
11キロまで頑張れって励まして、さあ終りだ、やめようって言うと
まだ走るって言ったりする。

なんなんだ、おまえは。
優柔不断とは身体、おまえのことだ。

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2008年5月 9日 (金)

記憶力

そう言えば役者は記憶力と言い切った人もいた。
確かに台本を2回読めば覚えてしまうという子役や
本読み稽古の初日に全ての台詞を入れてくる大御所
なんて話は才能ある俳優って感じだし
モデルさんに俳優やればいいのにと言うと
必ず、とても台詞覚えられないから、と言う。

前に記憶法のセミナーを受けたことがあった。
そこでは「私の記憶力は日に日に良くなる」
「私は覚えたものはいつでも思い出せる」
と自己暗示をかけましょうと教わった。
僕が台詞覚えがいいのはそのおかげである。
まあ、それはそれとして…

台詞が出てこなかったり、間違えたりすれば
舞台でも、映像でも大問題である。
演出補やADさんはそのチェックの為にいたりする。
なんだよ!台詞、はいってねぇじゃん!
台詞ぐらい入れてこいよ!
そんな屈辱を恐れない俳優がいるだろうか。

手間はかかるが
台本を朗読して録音し、静かに繰り返し聞くという方法は
現場で効力を発揮する。マイブーム。
相手の台詞を聞けば聴くほどにそこに自分の台詞が出てくる。

何回も早口でしゃべって口に覚えさせるという方法も○
一人で何行も何ページもしゃべってなきゃならない時ね。
現場で台詞が変更された時は慌てずサッパリとセーブし直す。

しかし
ただ台詞を間違えず言ってるだけの棒芝居はいやなのだ。
外郎売を間違えずに言えたからと言って金をもらうのか。
勿論いやと言っては役者としてやってはいけない。
そんな現場で疲れていてはいけない。とにかく
台詞を覚えるという作業、ここから逃げることは出来ない。
台詞を入れるという作業を迷わず嬉々として繰り返すのだ。

まぁしかしそれはそれとして
「私はどんなに長い台詞でも覚えて、正確にしゃべることが出来る」

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2008年5月 8日 (木)

焦点への集中力

舞台の上演中やカメラが回っている間に
俳優が話を進めていく集中力。
いわいる「たどり」。意識の流れ。
台詞は段取りの波となり次々と現れて消えていく。

台本や演出の意図等周りからの風を意識は受け
リアリティを求めて無意識の力を借りる。
意識がでっち上げる話に無意識は正直な想像をし
感情が流れそれを意識が見守る。

レコードは回り針が引っかき音楽が奏でられていく様に
何を意識するか感じるかの針から演技が生じる。
この作業こそが味わうことの出来る作品の一部分だ。
この集中こそが俳優力の最重要素ではないだろうか。
もしかして俳優ってレコード針?

舞台では公演が始まると「初めてその話を知った観客の目」
というたどりが出現する。
それが今までの稽古で作ってたモノと違っていた場合
違和感となり、テンポを乱し、台詞も飛んだりする。
修正は頻繁に上演毎に限りなく続く。
映像では俳優が用意して来たたどり以外には頼るべきは無い。
そのたどりは現場で相手役にさらされ、セットに驚き
監督に試され、撮り順に惑わされ、カメラショットサイズに…

神聖な本番で意識が迷って演技を邪魔しないように。
レコードの溝に針を落としたらソファに座って楽しもう。
溝を深く彫っておくこと。
つまり俳優は現場に深く彫った心を持って行くわけだ。
レコード盤なんだな俳優の心って。

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