俳優力

2018年7月22日 (日)

オーディションセブンG

俺たちはオーディションに受かりさえすればやっていける。生きていける。
たとえ、昨日現場でNGを連発してしまおうとも
最低の下手くそ俳優だと罵倒されようとも
終わりではない。
今日、このオーディションに受かれるなら、来週に仕事がある。

人生が自分しだいで変わっていくように
オーディションもそれを受ける俳優の心持ちで違った結果が出るはず。
受かる時決まる時と、落ちる時外れる時。
自分の心持ちの中に違いは無かったか。
つまり、受かったオーディションから学ぶことは多い。
オーディションに全く受からない自分がいて
一方で
オーディションに毎回全部受かる自分がいるとする。
まあ、リアルには、オーディションに一割位は残ったり決まったりする自分と
受けた8割を決める憧れのグレイトな自分がいるとする。
その違いは何だろう。どうすればそこに行けるのか。
演技力?
理解力?
情熱?
輝き?
自信?
オープンハート?
運動能力?
度胸?
オーディションが俳優人生の恐怖から救ってくれるものだとすれば
落ちる恐怖なんてものもない。
オーディションは恐怖の反対のもの。
すなわち、オーディションは愛だ。
まずそれを受かったものとして始めていい。
自信満々で
傷つきやすい
って愛?
心開いてほんとの自分を表現する。
論理的には演技力理解力情熱輝き自信
オープンハート度運動能力度胸等などが
ほぼ完璧になってないとグレイトではないのだけど
そんな気になって飛び越えて俺はスゲーと勘違いすることは
俳優なら朝飯前だ。
だから

8割行ける。

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2016年3月12日 (土)

続・オーディションセブン

前にオーディションを分け、それぞれのポイントで自分らしい手応えを得よう、という「オーディションセブン」を書いて一年ほど経った。

それから50本ぐらいは受けたので、そろそろバージョンアップ版を作ろうと思う。

その50本の中で4本のオーディションが、撮影中の中抜けで受けたり、終わって駆けつけて受けたりしたものが、4本とも受かっていた。これはどうしてだろうか。

本番での演技とオーディションでの演技。続けてやれば似てしまうだろう。違えているつもりはなかったが、やはり違っていたのか。

つまり、オーディションでの演技が本番での演技と違っていたせいで落ちたこともあったということだ。

違いの一つ「これでいいかな、これでいいや演技」をオーディションでしていた。もちろん、その手抜き加減は自分にしかわからないが常に排除するしかない。

二つ目、このオーディション、受かっても受からなくてもいい。本番とはすでに受かって仕事にありつけているものだから、そういう力が抜けて自然な演技が出来たのかも知れない。

三つ目、流れと勢いがあった。もちろん本番の方が準備期間が長いから無意識的なものが加勢してくる。

四つ目、やった、このオーディション受けれた、ラッキーと思って受けていた。

五つ目、自分は仕事している俳優ですのでという自信が出てた。さりげなく。

しかし、二つ目の受かっても受からなくてもという意識はそもそもオーディションセブンで意識的にオーディションに受かってやるという考え方にそぐわないのではないか。と、いうことは受かりたいというやる気はオーディションに要らない意識なのか。自分には必要だが、審査員にはうざったいのだろうか。とりあえず、やる気は隠す。ということで

あと、僕の中で変わった意識がある。

200回読んで撮影に挑んだ「テイク8」という短編映画が映画祭でグランプリを獲ったことで、努力するとすげえ嬉しいことがやってくると思っているみたいなのだ。

専門用語の長台詞でわけわかんねえと思っても、この企業VPでグランプリを獲ろうとつぶやいてみると、不思議なやる気が湧いてきて乗り越えられる。

オーディションセブン改良版、 使ってみますね。

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2015年9月24日 (木)

シナリオ200回

渡辺えり著のエッセイに故三國連太郎氏が自分のデビュー作の拙さに2作目から映画200回、舞台は400回台本を読んでから臨んでいると書いてあった。舞台の本読みで、三國の台本だけが既にボロボロなのを渡辺が気付いて、三國にその話を聞いたそうだ。

僕もこれを知ってから台本は読めるだけ繰り返し読んできたが
100回を越えたなと思ったら後は数えていなかった。
今回、幸運にも短編映画の台本を早くから頂いたので、正の字を書きながら200回を目指して読んでみた。
撮影は感慨深く終わった。
はてさて、200回読むとは何なのだろう?
「事実などない、あるのは解釈だけだ」と言ったのはニーチェだっけ
役者は出演する台本をどう解釈していくのか。
数多く読む効用は、読む度毎に様々な解釈を発見できると言うことだろう。
舞台の時に、初日お客さんが入って、あ、この芝居そういう芝居だったんじゃないか!と解釈をいまさら発見することもよくあるが、
シナリオを読んで、小さなたどりから始まって、大きなテーマ、表現タッチや作者の意図、自分の過去の体験、配役された役者の雰囲気、深く?軽く?イメージと論理性と感情の流れやなんやかやを考えたり、気付いたりしてとにかく色々解釈していく訳なんだけど…
面白かったのは180回読んだ時、あと20回かぁと思うんだけど、やっぱりしっかり読んだ200回とそうでない200回とあるんじゃないかって、じゃあと20回しっかり読もうと思うんだけど、もう追う目もめくる手も全自動になってて、それを上回る集中力を持たないとあっという間に読み終わっちゃう、やべ〜!200回終わっちゃう、なんか全然わからん!って困っちゃった。お、とうとう199だ、200回だ!やった!と達成感はあって、しばらくは台本はいいやってなるんだけど、頭の中でシーンはぐるぐる巡るっている。
何百回も読めば大量の解釈が出てきて、どう解釈しとけばいいのかわからなくなる。そしてその状態でカメラの前に立つこと。おそらくそれが、三國さんの意図ではなかったか。
小説であれば、こんな話だった、だから感動したとかつまんなかったと解釈することが読者の目的となるのだが、役者の解釈は芝居じみてしまう。
その人物は色んなことを考え、その時その場でそんなことを言われて、ふとその言葉を口走ってしまったというリアリティーをつかもうとしていたのではないか。
ある伊丹監督作品のメイキング映像で、三國連太郎は本番に自分でいくつもの課題を設定していてその全てをクリア出来ていないと自分で芝居を止めてNGにしてしまっていた。 大量の解釈を持って現場に入った三國がさらにやろうとしたのは、いくつもの意図といくつもの感情を持ったひとつのアクションだったのではないか。
Nihyaku

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2015年7月 8日 (水)

駈歩動画

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2015年4月 6日 (月)

オーディションセブン

Aud7

自分が今どこに居てどこへ行きたいのかは自分にしか判らないが

来たオーディションにはとりあえず受かりたい。

審査員達の待つ会場に向かう時、何を準備すればいいのか。

会場に入って、何をすればいいのか。

終わって、帰る道すがら、何を考えればいいのか。

そんなことを考えていたら「ポイントで7を出していけばいい」と答えが降りてきた。たぶん、それは正しいのだろうと思えた。

順番に一つ一つのポイントでスロットを回し続ける

それを自分らしい 7 に揃えて行く
10の手前にある輝く 7 を次々に見つけていく
つまり、ポイントは何なのか それを決めて準備すればいい。
そろえる数字が7であるならポイントも7つとしよう。
すなわち、オーディションセブンだ。

潜在意識の主人として意識的にコントロールする

それは回る潜在スロットを止めて、これだと選びとって行く瞬間の意識だ

①自分のイメージ

自己紹介してクルクル回りながら、わかりやすくプロフィールを伝える。まずキャスティングさんが自分にあると思って呼んだイメージ、例えば上品さ、重厚感、優しさ、清潔感等、それが 7 であること

②ワル目立ちをしない。
落ち着いて、慌てない。台詞を噛まない。審査員が推そうとしても不安材料が提示されてしまっていては容易に反対されてしまう。
③解釈
コンテや台本を読んで、作品の目的やテーマを理解するのを皮切りに、自分が演じる役についての自分なりの分析が始まる。この解釈が一つの賭けであることは明白だ。キャラクターは作らない方が制作側の解釈と対立しない。
④エネルギーによる力強い印象づけ
全てを手放し、フローな無敵状態になり、いい加減で適当な自分自身が持つエネルギーが放出される演技の瞬間を作る
⑤要求に素直に従う。自分が制作側を信じてこそ信じてもらえる。その信頼関係が 7であること。その場の流れにのる。神様に任せるように。
⑥技術力
相手役との関係性や場所や役柄の感情を表現するが、演技でございと感じられては3か4だろう。素で繊細に感じて自然な反応をする。
⑦楽しむ
自分がオーディションの場でどんな 7 を出していったかが重要であり
自分として素敵な7を並べられたのであればそれで満足する。
それでもさっぱり受からないのであれば間違っているのはポイントだ。ポイントを検証していけばいい。
こんな作業が楽しければ、実力は向上していくはず。

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2014年6月12日 (木)

立原正秋

Kimono

「牟田さん、立原正秋の朗読やりませんか?」とある人が言った。その人は僕と初めて逢った後、たまたまテレビ番組で熊澤南水独り語りと言うのを視ていた時に「牟田さんが立原正秋を着物着て朗読するのがひらめいちゃったんです」と言う。
その人はそれからも朗読をやったら良さそうな古い商店街のおしゃれなカフェを見つけましたとか、45分じゃないと駄目だって南水さんは言ってましたとか、ちあきなおみの冬隣観ておいて下さいとか、逢う度に僕を導いていく。

それではと僕はアマゾンで古本を十数冊取り寄せ、その中から読むと一時間程の短編を45分に削り、来る朗読会に備えた。

立原正秋は40歳頃文壇に登場し54歳で亡くなっているので、その全作品もやがて読み終えてしまうが朗読という形でこれから先ずっと関わっていきたいと思う。

黄金ラヂオと言ってまたキトクな方がネット配信の場を提供してくれたので僕の一番好きな立原正秋の短編「春の死」45分版を10分割して朗読することにした。その後も「薪能」等の短編や著名な長編も朗読し続けていこうと思う。

乗馬の基本は馬に精神的に負けないことだと言うが朗読も作家の精神を再現出来るかということなのだろう。日本が滅亡することを願いながらも日本の美しさに振り上げた手を止める、そんな立原正秋の精神性を捉えることが出来るのか。

そしてそのひらめきの立原正秋朗読会の日を迎えることが出来るのか。

まだまだこれからだ、53才の僕。

P.S リンクついでにこころポートレートから
牟田父親CM」で検索して来て頂いた方に

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2014年6月 8日 (日)

現場に馬を連れてって

Uma61

前のブログに「人馬一体は幻想である」と否定的に書いたが、それがどうにも気になり、やはり前向きに「人馬一体は夢である」と考えようと思うようになった。
これは「自分の才能を発揮した人生をおくりたい」とか「悟りたい」とかと同じことだ。

馬が何を考えているのかはわからない。ただ、きっと馬はこう考えていると思っている自分がいるだけだ。馬の持つエネルギーを乗り手が自由にコントロールしようとする時、馬とは自分のエネルギーであり、自分の潜在能力と同じものだ。つまり、馬を見ているようで、自分自身を見ているのだ。思うがままにならない馬は思う通りにならない自分の人生であったりする。乗馬なんて出来たって俳優の仕事には繋がらないよと思うのも、俺は俳優でやっていけないよと思ってるみたいなもんなのだ。

乗馬のブログや記事を読んでいると、競技会や跳躍等の時に一体感を感じた、恍惚感がやって来た、ライダーズ・ハイ状態になったという話に出会うし乗馬それ自体がそれを求めての行為なのではないかとも思う。

俳優は撮影現場に我が身ひとつを持って行けばいいのだが、本番の時には演じる人物をコントロールしてみせなくてはならない。人馬一体というより、馬人一体というか変なことを気にしたり緊張したりして馬が走るのを邪魔してしまえばNGだ。
勿論、馬が暴れても、走らなくてもNGなんだけど。
目の前の馬と付き合って前に進む道を探るほか無いのだ。

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2013年11月28日 (木)

俳優は馬に乗れ

Danon2Danon1_3

かの黒澤明監督のところへ、使って下さいとある俳優が行ったところ
「君は馬に乗れるかい?俳優は馬に乗れなきゃダメなんだ」
と言われたそうな。
と言う訳で僕も乗馬を始めた。
やってみて、俳優というのは馬なんだとわかった。
YouTubeでプロ騎手を乗せたとたんバック転をして
騎手を振り落とす馬の動画を観ることができるが
馬を思い通りに走らせるのは車を思い通りに走らせるのより難しい。
それは馬が、こんな台詞かよ、こんなギャラでよ、こんな役ってさ
でもだいたいさ、と考えたり気にしたりするからだ。
名優と称賛される役者がいるように美しく走る名馬は存在する。
乗り手に蹴っ飛ばされ、鞭を入れられ全速力でいつまでも走らされても
それで?次はどこへ?と佇む馬は頼もしく美しい。
称賛し金を注ぐ愛すべき馬はそんな馬だ。
人馬一体と乗り手が一方的に幻想を抱くように
逆に俳優も好きなように演じられたらと思う。
しかし各々の私的幻想が重なることはない。
馬が走る事以外何も考えておらず
乗り手の幻想にそのまま従いつつ全速力で走ってくれなくてはならない。
しかし、自分を乗せて走ってくれる馬のなんと愛しいことか。
あぁ乗りたくてたまんねぇ
そんな馬にわたしはなりたい。

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2013年6月12日 (水)

集中とイメージ

「映画には夢を現実にする力がある」と「ヒューゴの不思議な発明」で言っていたけど、頭の中で描いたイメージに集中することさえ出来れば、色々な作業の能率は格段に上がる。夢への集中力を映画が高めているということだ。

乗馬をすると毎回色んな学びがあるが、例えば前回までちっとも言うことを聞いてくれなかった馬の反応がいい時がある。上達を感じる瞬間だが、何が違うのか、馬の集中力が違っていたねとインストラクターは言う。

僕の出していた指示、手綱とか鐙や鞍からの力に馬が集中しているということだ。

もちろん僕はこれまでも毎回集中していたはずである。何に?

一生懸命、目の前の馬の動きに。

軽やかに走る馬に乗っている自分のイメージは無かった。

映像の現場での俳優の仕事は目の前の監督やスタッフのご機嫌を伺うことではなく、

まだ誰も見たことの無いイメージを現場で現実化してやることだ。

まずイメージ、それだけを意識して、そしてアクション、行動だ。

こころポートレート「お父さんの幸せ」篇

26分くらいかな、面白いです。

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2012年12月10日 (月)

自分を救え!

先月、「大和魂2」が終わった。中国のテロの方に断っておくが、大和魂というのは大和優雅さんの魂ということであって、他意は無い。誤解をなさらないようにね。

今回ケンという役で参加させてもらった。
役者というのは企画者や作家の思いや世界観を実現する為に必要とされる技術職であって翻訳者みたいなモノだとは思うが、創りだす作品というのは関わった誰にとっても子供のようなもので、愛さずにはいられない。
終わって寂しく感じているのは僕だけではないだろう。
今回皆が、大和監督と呼び、その世界観を崇高なものと尊重し優先した。
岸田秀的に言えば、その私的な幻想は多くの関係者の愛を受け育まれ一つの明確な共同幻想へと共有される道を歩み始めている、と思う。
今回の「ロケット」はパンフレットからも判るように、大和優雅氏が自分を救おうとして書いた作品である。しかしこの作品によって彼自身が救われる時、これを自分の話として受け止めた観客も同時に救われるのである。
では自分はどう生きているのか
その問いの答えをを大きなスケールで受け取ることが出来るからだ。
役者として生きていくということは他人の私的幻想を渡り歩いて生きていくことだ。時に自分自身の私的幻想が逆風となることもあるだろうし、追い風となることもある。
自分を救え!という声は常に僕の中でも鳴っている。
え、さっき救ったじゃん、と言っても駄々っ子のようにおさまりはしない。
役者として生きていくという事自体が駄々っ子を甘やかし続ける生き方だからかも知れない。
だが、他にしたいこともない。
春を待つヘビのように、寂しさに耐えるしかないのである。

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