心と体

2012年6月12日 (火)

問題

春が来て暖かくなって、ブログの書けない日々が続いた。

毎日を有意義に送っている手応えが無く
目の前の出来事を蹴っ飛ばしてはイライラと焦っていた
神聖なるブログと向き合う事など出来なかった。

いつでも、邪魔をするのは自意識、あんただ!

とは言え、イライラも邪魔も、受け取らざるを得ないメッセージだ。
今歩いてるこの道が違っているということなのかも知れない。

思いを変え、波長を変え、道を変える。
思いを捨て波長を上げ、違うことを始める。

癒すべき傷は、いつでも自分の結果だ。

自分の状況がこんなことになってしまっているからと自分が自分を斬り刻む。

しかしその傷こそが、傷ついている原因こそが、手掛かりとなる。

何が大事で何が大切で何が好きで何がしたかったのか。

確かに時間は限られている。だから焦る。

今の結果で採点しているのは何故か。何を確かめようとしているのか。
そんな暇があったら、新しい問題を解こう。

取り組みたい問題、大切な問題。愛すべき問題。

なるほど、あぁ、そうか。それはこの自分が何者なのかということだ。


まだまだ、俺もまだまだだということだな。

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2011年10月19日 (水)

こころのとも

母が、自分の状況を説明しようとして、
友達が言ったのよ、と言う。

認知症と言うか内面の話をもう少し。

特に短期記憶すべき事柄があやふやになって来るのだから
嘘と本当もあやふやになるのもしかたない。

でも心の声は届いている

繰り返し行動を邪魔する声、あるいは優しく導く声

どの声について行けばいいのか。

時間軸にのっとり
外であったこと内にやって来たことの区別を付けて僕らは
自分としての一貫性を保っている

誰かから聞いた言葉と内なるつぶやきの違い。
それは僕らにとってもあいまいだ。

自分を不安にさせる言葉に繰り返し苦しむこともある。
慰めて、元気づけてくれる声もあるだろう。

そんな声を友達と認識した。

今やっていることは友達に言われたこと。

こころの友だけが母をそして僕らを導く。

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2011年10月12日 (水)

多幸症

認知症は進行性の病気である。
だが人それぞれで、百人百様の進行があり症状がでるという。

記憶がどうのと、言ってるのは初期。
深刻なのはそれが運動機能や基本生活に及んでしまうことだ。
話すこと、動くこと、食べること、排泄までも
脳が、生きていくことを忘れてしまう。

認知症の解説を見てみると
混乱期を抜けた末期に多幸症が現れる。それが救いだ。とか
感情失禁の症状がでることも、とある。

母に変化が現れ買ってくるものが人参ばかりになってから5年は経つだろうか。
「忘却とは忘れることなり」
えっ、忘れたの?と聞く度に笑って繰り返していた。

どうなってしまうのだろうと心配する僕らをよそに
疑惑と不安の混乱期をあっという間に潜り抜けた。

感情失禁、良いと思う。

子供のように笑い、子供のように泣く。

役者にとってそれは学ぶべき名演技だし

そこに何かの理由があって出てきた感情をそのまま見せることが出来るなんて

これは症状というべき異常なことだろうか。

この方が人として自然なのではないか。

そして多幸症。
僕らは迷わずためらわず振り返ることなく
そこを目指す。

幸せが多すぎる。嬉しすぎる。楽しすぎる。
そんな病気になってしまって

母の人生がそこで完成する。

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2011年9月 7日 (水)

願いをひとつ

Mikosama

近所の神社の願いを叶える巫女さん人形。

願わくば…何だろう?

何か強力そうな巫女人形

さぁ、願いを叶えますよ!
と言うことになって

僕は何を求めているのと戸惑う。

お願いを間違えないように!

焦っているのは歳のせい?

今、僕を妨げているのは何?
幸せに好きなように暮らしてて、
ここには何が無いあれが無いと、探しているの?
感じているのは内?外?

えーとつまり、もっと、と言うことかな。

もっと年収を上げる
もっと家族にいい暮らしを
もっと売れてる役者に
もっと大きな役をやらせてもらおう

勿論、役者人生は後戻り出来ないけど
行けるとこまで、たどり着くだけ。

何か自分自身が求めていることが
実は自分で判っていないんじゃないの?
もどかしさはどこから?

過去の点をつないで線を引けと言うジョブズの指針にドキリとして、
なんか外れてしまったように思うのは何故?

外の何かに焦り、内の何かを諦め、外の何かにすり替えようとしてる?

自分は何がわかるようになったの!?
どんな大人に成りたかったの?

願わくば!願わくば!

妨げているものを飛び越えて僕に、天啓を


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2011年8月31日 (水)

目覚め

Maruen

楽しかった大学生活。
「こんなことがあった」シリーズを考えていると
大学でのいろんな出来事が思い出されて楽しくなる。

教育学部教員養成課程だったから
地元の小学校の先生になるものと誰もが思っていた。

その頃は採用状況も百%だったから
先生ではなく、役者になるという選択は

ただ自惚れていたのだろうし
社会を甘く楽観していたのだろうとも言える。

だだ、大学の演劇部で僕はやっと自分自身と出会った。
遅ればせながら、ここで僕はやっと目覚めたのであった。

文化祭の出し物だったと思う。
イントレ(鉄パイプ)とブルーシートで芝居小屋を作り
いくつかの寸劇を上演していた。

僕はチャオリンという中国人のオバサンのストリッパーだった。
むちゃくちゃな中国語をしゃべって観客にからみ
着てた着物を脱いでいくという即興パフォーマンス。

ただのコンパ芸のような出し物だったが
演じ始めた瞬間、狐が憑いてしまった。
もの凄いエネルギーがやって来てその場でドラマを作った。
僕はでたらめな中国語で怒り、笑い、泣いた。
意図したものは意識的な作為は何もなかった。
流れの中で僕はチャオリンの身上に怒り、笑い、泣いていた。
すべての着物を脱ぐという瞬間、暗転し舞台に着物だけが残り終わる。
役者には伝えるべき話があり、それを演出している自分も同時にあった。

観客にもそれは伝わった。
見ていて興奮したと僕のチャオリンはしばらく語り草になった。

自分ではないチャオリンが自分を開放した。
演劇ではこれを飛翔或いはインスピレーションと呼び、
充分な稽古という滑走があって初めて
飛ぶことも出来ると考える。

スタニスラフスキーシステムもこのインスピレーションを
どうしたら毎回の公演で得ることが出来るのか
という命題に答えようとしたものだ。

僕の中にすごいキツネがいる。
それは僕にとって、かなり大きな体験だった。

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2011年8月17日 (水)

高校のど自慢大会

こんなことがあった。
高校三年の時のことだから
もう30年ほど前のたった5分間の出来事。

確か生徒会主催のイベントで
学級対抗のど自慢大会というのがあった。

観客は在校生だけだったと思うので確か文化祭とかではなかった。

体育館の舞台で在校生五百人程を前に
学級の代表者が順番に歌を歌うという
しょぼい企画であった。しかも伴奏なし。

僕はビートルズの「oh! darin」をひとり歌った。
レコード「アビーロード」は繰り返し聴いていたし、
かなり練習もした。
歌っている本人には頭の中で感動的な伴奏が鳴っている。
が、しかし…

おう!だーりん!ふぇんゆうぎーみ!!

『英語かよ!』

と野次が飛んで、笑いが起きた。

『わけわかんねえ!!』

頭の中の伴奏が鳴っている間の静寂 歌 静寂

『まだ終わんないのかよ!』

かなりの間の後、突然歌う僕は笑われ続け、野次られ続ける。

『まだ歌うんかよ!』

爆笑。おお受け。

英語の歌声と野次と笑いが代わる代わる響く体育館。

歌い終わり、頭を下げるまで、5分程の出来事だった。

僕の次は男女のペアがデュエットで有名な演歌を歌った。

野次は飛ばず、大きな拍手と歓声があった。

この体験。

僕はこの後、大学の演劇部に入り舞台にまた上がる。

そして、僕をして佐賀から上京させたエネルギー。
今も尚、僕をして役者をやめさせないエネルギー。

自分は舞台の上の人間であり
客席側に座って笑ったり野次を飛ばしたりはしないのだという決意。

思春期の自意識過剰の僕のその時の必死の決意。

その怨念のようなエネルギー。

でも、もう三十年も経ったんだ…

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2011年7月27日 (水)

点を繋げて道をつくる

ジョブズの演説
三つの話はどれも自分の人生の指針にしたくなるような
内省的で感動的なスピーチであるが
その中の「過去の点を繋げて道を作れ」という言葉が
僕にとっては一番 ヤバい。
これを観た時、あっ、今人生間違えてるっ 
という思いがヨギッたからだ。 

その作業をさけて通ることはやはり出来ない。

これから、①お話を作り
     ②シナリオを書き
     ③カット割りとかして
     ④撮影して
     ⑤編集して
     ⑥作品にして
     ⑦公開する

という作業をしてゆくことにした。
それはそのまま、過去の点を繋げる作業となるはずだ。
 
振り返ると、人生を変える、変えると息巻いていたが

なんだ、そういうことかと腑に落ちたりする。

なるほど、これでいいのだ。

暇があったら作品を考えてればいいのだ。

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2011年7月13日 (水)

余韻

余震ではなく…


仕事を終えて、

心にやって来る余韻。
自動プレビュー。

俳優の仕事の場合

仕事が入って嬉しい
仕事をして、嬉しい
放送されて、嬉しい
ギャラが来て嬉しい

どうかすると
また放送されて、嬉しい
またギャラが来て嬉しい

まぁ、入るまでは耐える耐える耐えるだから

たまの仕事はまた格別に、嬉しい。

どうかすると初心にまで、戻ったりして

この仕事続けて行けたらなぁ、続けて行きたいなぁ と 

ひとり祈って、たそがれる。


セドナメソッドで感情を手放していると

余韻の味わいもまた前とは違ってきていることに気づく。

外側からやって来た仕事

そして内側からやって来る余韻を全部手放しで、受け入れる。味わう。

言葉にならないメッセージ。

涙が出たり、元気になったり。

ただ何が嬉しかったのか。

ただ何を恐れていたのか。

それは僕だけが理解出来るメッセージ。

そしてそれは僕だけが受け取ることの出来る

感謝と幸せの瞬間となる。

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2011年7月 7日 (木)

引っ張りだこ

富や成功を引き寄せてしまう
いわゆる「引き寄せの法則」

どんな法則なのかを説明する本は沢山あるが
その中で、
それは愛の法則と同じものだという下りを見つけた。


呼ばれないと仕事が出来ない俳優業界も
そういえば
愛したり愛されたりで
動いているのかもと思って久しい。

売れて、注目された俳優は
流れに乗ってさらに新しい仕事を引き寄せ、
愛され始め、オーラが溢れ出る。

引っ張りダコ状態。

忙しい中で輝き出す。


人気俳優が引き寄せているもの。
そして、その俳優を引っ張ってるもの。

ドラマを作っている計算と論理
泣いたり笑ったりの感情。

そこにある愛。
その愛こそが、そのタコなのだ。


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2011年6月12日 (日)

一段落ついたなら

セドナメソッドも波動の法則も引き寄せの法則もみな言っていることは

常に「今ここを生きる」習慣を作りなさい

ということで、それはこの半年程の日常を過ごす上でも、とても役に立ってくれた。

気付いてみれば、手放せないと思えた危機的状況も和らいでいて

なんかひと心地ついても良いなという爽やかな気分がやって来ている。

感情が手放せると行動が速くなる。決断が早くなるから。

感情はこれから先の不安や昔の嫌な思い出ばかりで

今ここの決断を意地悪く邪魔する位しか能がない。

目の前にある大切なことをひとつひとつ大切に扱う。

進もうと頑張る必要は無くて、

目の前に次々にやって来る状況を受け入れていけば状況は進み変わっていく。

諦めずにただ心の内で見つめ続けている、自分の好きな状況。


一段落ついたなら

ちょっとだけお祝いして感謝して

静かに自分の風呂敷をひろげてみよう。
Hurosiki

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